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     箱の中

■ 「箱の中」書評・感想集 ■


 

 

     1

 

 くっきりと影を落とすアスファルトは、足の裏がやけどしそうなほど熱かった。閑静な住宅街もバス通りを外れると街路樹さえなく、夏の陽がヒリヒリと肌を射した。
 暑い。
 バス通りからずいぶん歩いたはずなのに、目的の家が見えない。バスの冷房でひやされた体は水から上がった後のように汗で濡れていた。もうこれ以上歩いたら暑さで死んでしまう──海辺真理子は、いつのまにか頭の中で炎熱地獄、炎熱地獄と唱えながら、ただひたすらに足を運んでいた。
 別に、今日でなくてもよかったのだ。──海辺が来る必要もなかったのだ。今非常勤で勤めている高校の、海辺の母校のその元教師の実家など──もう事がすんで、何故、今になって来てしまったのだろう。今さら、もうこれ以上知るべきことなどない。その教師が育った家に行き、本人もいないのに母親に会う必要などもないはずなのだ。
 しかし、それでも、海辺は行きたかった。
 何をしに──何のために──自分でもわからなかった。あるいは、これは、ただの同情かもしれない──そんなふうにさえ、思う。
 この炎暑の中をくぐって、そこに何があるのか。──たとえ何もなくても、海辺はいかねばならない。それは誰のためでもなく、ただ純粋に自分のために、自分を慰めるために、いかねばならないのだ。
 海辺はふいに足を止めた。地図では、今曲がった角の正面に、その家があるはず──。
 しかし、海辺の目に入ったのは、高い高い壁だった。視線を上げると、壁の向こうに家が見える。家の上には空。美しい夏の青空、白い雲。
 海辺は深い息をついた。
 正面の門へ行くには、もう一つ角を曲がらねばならなかった。住宅街の他の家に劣らず、いや、ひときわ、大きい。とても公立高校に勤めていた教師の実家とは思えない。この邸宅から、あの教師は、毎日毎日、通っていたのだろうか。金持ちのぼんぼんの冷やかしではあるまいか。
 表札には「菊川」と筆書きされてある。呼び鈴を押す。インターホンから涼しい女性の声が返ってきた。
「あの、お電話さしあげた海辺と申しますけれど…。」
「あ、はい。ちょっとお待ちください。」
高い壁に挟まれた門には屋根があった。影に入るだけでずいぶん暑さをしのげる。海辺が門の柱にもたれてハンカチで汗をぬぐっていると、門の脇に小さい扉があって、そちらの中からカタリと音がした。扉が開く。と、初老の、和服姿の女性の顔がのぞいた。目が会って海辺が頭をさげると、女性が門の外に足を踏み出し、
「海辺さんですわね。」
言いながら二三度うなずいた。
「こんにちは。すいません、突然お電話しまして…。」
「いいえいいえ、ひろしの生徒さんがはるばる訪ねていらしたんですもの。まあ、ようこそいらっしゃいました。さあ、さ、どうぞ。遠慮なさらずに、お入りになって。」
婦人の物腰に、海辺は少しおよび腰になった。これが菊川の母親だろうか。菊川に少しも似ていない。菊川はいったい誰に似たのだろう、父親だろうか。
 海辺は門をくぐった。木と、水の香がする。木は、木の匂いは庭のものだけではない。これは、桧の香だ。日本家屋だけの持つ独特の薫り、そして、どっしりとした家の構え。招き入れられた家の中は、外と明らかに気温が違う。
 涼しい。
 海辺は日本家屋の不思議を思った。暑いことにかわりはないのだけれど、やはり西洋風の家とは違う。招かれるままに段を上がり、廊下を歩き、応接間へと案内された。外の日本家屋とはうらはら、西洋風のゴージャスな部屋である。夏らしく、応接セットのかわりに籐椅子が置かれてある。一人がけが二脚、長椅子が一つ。テーブルはガラス張りで、これも脚は籐だった。
 訪れる客のためにあらかじめ冷房が入れられてある。
 極楽、と海辺は目を細めた。
「まあまあ、お暑い中ようこそいらっしゃいました。今冷たいものでもお持ちしますわね。さ、おかけになって。すぐ持ってまいりますから。」
そそくさと婦人が出て行き、海辺が籐椅子の一つに腰を下ろした。
 応接間は南に面しているわりには暗い。西の窓と南の窓下半分がすりガラスになっていて、レースのカーテンがひかれているせいだろう。涼しいにこしたことはない。が、家の中が静かなのも手伝って、海辺は何か落ち着かなかった。元々、海辺がこの家に電話したきっかけは、家を見るのが目的ではなかった。菊川寛の残した絵があれば見せてもらいたい、ということだった。電話では、菊川の使っていたアトリエがあるから、絵もそこにあるとのことだった。見せてほしいとたのむと、菊川の母と名のる婦人は、快く承知してくれた。
 あの電話の声は、確かに今出迎えたあの婦人のものだった。とすると、あの婦人が菊川の母ということになる。丸顔の、ふくよかな女ではないか。ガリガリのちょっと神経質そうなあの男とは随分違う。
 海辺は首を傾げた。
 廊下から足音がしてドアがノックされると、お盆に冷たいものとお菓子を乗せて、婦人の顔がのぞいた。
「先にアトリエの方をご覧になる? でも、暑い所お疲れでしょうから、少し休まれた方がいいんじゃないかと思いまして。ねぇ。冷たいものでも召し上がって、あちらはまだ暑いですから。ねぇ。」
婦人はせわしげに話しながら入ってくると、にっこり笑って海辺の前に盆の上のものを並べた。
「ええ、すいません。何かあつかましくお邪魔してるのに、お気遣いいただいて…。」
「いいえぇ、私など、若い娘さんにはなれないものですから…遠慮なくおっしゃってくださいね。ええと、海辺さんは、いつの時の教え子さんでしたかしら。寛が学校をやめた年に、ご卒業されて…?」
「ええ、そうです。先生の絵の個人的なファンでしたから。今度非常勤講師で母校に戻って、久しぶりに先生の絵が見たくなったんですけど、学校には一枚も残ってないので…。」
婦人は見入るように海辺の顔をみつめた。それから感心したように口を大きくあけると、
「まあ、そうですの。寛の絵の…。」
うなずきながら言って、途端に婦人は顔を曇らせた。うつむく。合わせた手に視線を落とした。
「その、すいません、私…。」
「いえね、ばかね、私。もう五年近くになるのに、未だに寛の話をされるとこうなってしまうの。もっと元気にならなくっちゃって思うのだけど、どうしても…。」
「いえ、私も、無理にお願いして…。亡くなられた方のことなのに、友人でもない私が…。」
「いえいえ、いいのよ。いいんです。」
婦人は両手をこちらに向けて慌てて手を振った。
「卒業生が寛の絵を見たくて訪ねてらしたんですもの。それだけで嬉しいことです。本当に…。正直言って、時々ね、思うんです。あの子があんなに若くして死んで、あの子がこの世に生まれてきた理由って、一体何だったのかしらって。──そう思うと、あの子の描き残した絵が、まるであの子の命を語っているように思えて──。アトリエを片付けられないのも、そのせいなんです。絵の道具もキャンバスも、全部あの子がいた時のままなんです。だから、あの子の知り合いで、見てみたいっていう方がいらっしゃるんでしたら、それはもう大歓迎なんですのよ。お気になさらないでね。」
言って婦人は微笑を浮かべた。口元がゆがんで見える。海辺は慌てて視線を落とした。
「あの…。」
二人の間の気まずさを消すように、海辺が言葉を探す。
「アトリエというのは、このお二階かどこかに?」
「ああ、いえ──。」婦人はピクリとして顔を上げる。「いえ、この家の中じゃありませんの。あの子が大学に入った年に、庭に離れを建てましたの。そちらの方に──。何でしたら、先にご案内いたしましょうか。ね、せっかくいらしたんですから、早くご覧になりたいでしょう? ね、そうしましょう。」
 婦人は立ち上がった。海辺は別に急いてはいなかった。が、このままでは間がもたない。休めと言った舌の根も乾かぬうちにアトリエに案内するという婦人も同じ思いだろう。ここは婦人に従うことにした。
 玄関で一度靴をはきかえ、「こちらですのよ」と裏へと案内される。と、表からは想像もつかない広さの日本庭園がひろがった。その一角に、洋風の小さい建物がある。樹木が手入れされた日本庭園には、少し不似合いである。
 海辺は婦人に導かれて石の上を渡る。ふいに、和服の婦人のうなじに目が行った。いくら涼しい中にいたとはいえ、この外の気温ではわずかな時間でも汗が浮かぶであろうに、婦人の体には汗をかいた気配すらない。この暑さでこの格好では、半袖ブラウスにタイトスカートで汗まみれになった海辺よりもずっと蒸れるだろうにと思う。しかし、婦人の体には汗ひとつなかった。それを海辺は不思議に思った。
「もうクーラーが古いもので、まだ余りきいてないかもしれませんわね。周りが木に囲まれておりますから、夏でもある程度涼しいんですけれど、換気以外はめったに開けないものですから…。少しがまんしてくださいね。」
婦人が戸を開け、彼女がそれについて入った。ムンとした空気が体を射した。先ほどの応接間の冷房で冷やされていたから、余計そう感じるのかもしれない。目の前に天井までつきぬけたガラス窓があるが、濃いめのスクリーンに覆われているため、中は意外と薄暗かった。雑然とした中にイーゼルが所どころ立て掛けてあり、部屋のそこここに絵が貼ってあるようだが、暗さで何が描いてあるのかよく見えない。
「やはり少し暑うございますわね。少しお待ちくださいな。今明かりを…。」
言いながら婦人は窓へと歩いていった。高い天井だと思って海辺が上を見上げると、手前半分がロフトになっている。
「足にひっかかりそうなものは避けてありますわ。どうぞ、お入りになっても結構ですのよ。」
 婦人がスクリーンの紐をひいた。途端に目を射られるかと思うほどの光が目に飛び込んでくる。スクリーンは二枚。海辺は思わず目をつぶる。
 次の瞬間、幻惑の中に浮かんだのは、窓の外の緑、そして、部屋中の絵という絵、すべてに描かれた、少女の姿。
 一瞬、まぼろしではないかと目を疑った。
 まぼろしでなければ、これは悪夢だ。
 キャンバスの上、紙の上、油絵の具で、水彩で、木炭で、鉛筆で、描かれたグレーの女。あの男は、死ぬ間際まで、幻想と現実の狭間をさ迷いながら、絵を描き続けたのではあるまいか。
 海辺の脳裏をあの、やせぎすの男の顔がよぎった。海辺が高校三年の時、あの男は美術教師になって三年目、二十九だった。海辺の学年が卒業してしばらくしてから、健康上の理由で退職し、その年の秋、不慮の事故でこの世を去った。享年三十一歳。慣れない自動二輪車で暴走し、角を曲がり切れずに激突。ほぼ即死だった。当時極度の神経症を病み、入退院を繰り返していたという。事故は、安静を取り戻して退院した後すぐのことで、覚悟の自殺であろう、と、警察は判断した。
 哀しい事故だった。

 


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